滝廉太郎と若山牧水
今日は明治の代表的な音楽家であり作曲家の滝廉太郎と、同じく明治期の有名な詩人の若山牧水の誕生日だと言う事です。

滝廉太郎は134年前の今日、若山牧水は128年前の今日です。

滝廉太郎は若山牧水より6つ年上ですが、2人がその時期、会った事があるかは不明です。

滝廉太郎の父は大蔵省から内務省に移転をして、大久保利通や、伊藤博文のもとで働きその後、地方官として国内を転々としました。幼い滝廉太郎も父と一緒に各地を回ることになります。

15才で今の東京芸術大学に入学をして、作曲とピアノ演奏で抜群な才能を発揮しました。

その時は日本の唱歌は出来ていましたが外国から入って来たもので、無理に日本語訳をはめこみ、変な感じだったと言います。

そこで、滝廉太郎は、日本人が作る日本の唱歌を作らなければならないと思い、「荒城の月」 「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」「雪やこんこん」などたくさんの曲を作り、その後、時代を経て、「荒城の月」はベルギーで賛美歌になった事も判明しました。

1901年に当時の日本人として2人目のヨーロッパ留学生としてドイツのライプツィヒ音楽院に留学をしましたが、わずか2ヶ月後に肺結核を患い、帰国し23歳という若さでなくなりました。

滝廉太郎が肺結核に侵されていたと言う事で、死後、多数の作品が焼却されたと言います。

滝廉太郎の亡くなる4ヶ月前に「憾み(うらみ)」という曲が最後の作品でした。肺結核を悪化して死を悟り、この曲を作ったと言われています。

しかし、多数の作品が焼却されたと言うのは余りにも惜しいです。
若山牧水は明治37年に早稲田大学に入り、私の住んでいる町会に下宿をしていました。

下宿をしていたのは、酒屋さんの2階で、その酒屋さんは森本亀吉商店と言い、以前、薬師丸ひろ子さんが、主役で出ていた セーラー服と機関銃の舞台にもなりました。

今はもうその酒屋さんは廃業をしてありませんが、木造3階立てで、趣がある家でしたが、一時期、その酒屋さんは、洋酒の売り上げで日本一になった事もあります。

昔、若山牧水が下宿をしていた時に、家賃を払えず紙に自分で書いた誌を家主の森本亀吉さんに渡して家賃の代わりにならないかと相談をしたら、森本亀吉さんはその紙を取り上げて味噌を包んでお客に売り、こんな馬鹿げたクダラナイ事を書いていないで、女に狂わず、まともな仕事をしろ バカ と怒ったそうです。当時の酒屋さんは、味噌を計り売りで売っていました。

若山牧水は物凄い酒飲みで、1日に一升の酒を飲んだと言います。だから酒屋さんの2階に住んだのでしょうか。

若山牧水は肝硬変でなくなりました。夏の暑い盛りに亡くなったのに、死後しばらくたっても、腐臭がしなかった為、生きたままアルコール漬けになったのではと、医師を驚かせたという逸話があります。

流石は、我が町会に住んでいた先輩です。

私は毎日一升の酒を飲みませんが、死んだ後でも生きているがごとく、腐臭を出さず皆を驚かせたいと思います。

という事で、今日は荒城の月を聞きながら、冷えた日本酒を一升飲んでみようと思います。

明日の朝、頭の中がクルクルして、鳩ぽっぽ を歌っていることでしょう。