江戸ヲ称シテ東京トナス
江戸から東京に改称すると決まったのが今から145年前の今日です。1868年です。
前年の1867年には、徳川慶喜が、大政奉還を受け入れています。
1868年は、大変な年でした。まさに、驚天動地の年で、
1月には鳥羽、伏見の戦い 一般的には戊辰戦争と言われています この戦いは日本人同士の戦いでは死者の数が圧倒的でした。  この戦いの戦死者を祀るために、あの靖国神社が出来たのです。
4月には江戸城無血開城 西郷隆盛が勝海舟と2日間、会談して話し合いの結果、江戸は火の海にならず、江戸城を明け渡したと言うことです。話し合いが失敗していたら今の東京はどうなっていたでしょう。いろいろな説がありますが、首都が大阪になっていたとか、京都や名古屋になっていたと言われています。
6月には会津若松の戦い (これはNHKの八重の桜でご存知ですね)白虎隊の悲しい話があります。
そして7月17日の今日 江戸が東京に改称となりました。年号は慶応4年から明治元年になりました。
その当時の日本は、列強各国に囲まれて好奇の目で見られていましたが、ある外国の外交官が日本のお百姓さんを小バカにして、日本の書物が読めるかと、貝原益軒の養生訓を渡すとそのお百姓さんは、すらすらと読み、また和歌も詠んだと言います。その当時、日本の成人男性の識字率は70%を超え、同時期のロンドンは20% フランスのパリなどは10%未満だと言われています。その外交官は本国に手紙を出して何と日本人の教育水準が高いことかと驚いて手紙を出し、日本と戦争になった場合は気を付けなければならないと書いていたそうです。

神宮外苑に絵画館と言う場所があり、この絵画館には、明治天皇がご誕生になられてから崩御されるまでの絵が沢山飾られています。

私の所から神宮外苑がそれ程遠くない距離にあるので、子供達が小さい時によく子供達の自転車の練習に行きました。

この絵画館の中にある1枚1枚の絵が、物凄く繊細に描かれていて、実際に撮った写真の様な絵もありますが、日本の様々な国宝級の人が絵を描くと、洋画と決定的に違うんだと思われるものがありました。普通の洋画では当たり前にあるものが、無いのです。それが不思議では無く、普通に感じます。例えば、大政奉還の絵、西郷と勝海舟の会談の絵、などは物凄く大きく繊細です。しかしあるものが無いのです。何でしょう? 今だったら洋画の絵の試験で無かったら落第です。

もし知りたかったならば、絵画館に行きましょう。それでも判らなかった時には、音練に来て下さい。

私が懇切丁寧に説明してあげます。音楽そっちのけで説明をします。覚悟をしてください。答えを聞いて、なーんだ。と思い、そして凄いと思うでしょう。